制裁機関たる便所の楽書(らくがき)

さてここでついでに、あんまり関係ないけど、匿名の落書について初出大正六年のこんなテキストがあるよー、というのをひとつご紹介。筆者は宮武外骨です。

制裁機関たる便所の楽書(らくがき)


読売新聞に「雪隠道徳論」として左のごとく掲げていた。

田舎は知らず、このごろ都会では、板塀に相合傘の評判記、へまむし入道、また筆の汚れになるような、風葉の小説「女髪結」の楽書式が大分減ったのは喜ばしいが、慨かわしいことには便所の中の楽書は依然、糞尿と異臭を競っておる。これは町中の共同便所ばかりでなく、堂々たる宗教学校や特に驚くのは帝国大学の中にもなるようだ。往来のもののちょっと借用に参ったのかと思えば、苦々しいことには独逸語や英語交りでいかがわしい絵解などがある。こんなものがいつまでもあっては確かに日本文明の顔に泥だ。何とか当局者の注意がほしい。僕の愚案では便所をズッと大きくして上厠中には手の届かぬようにしたらどうだ。「小人閑居すれば不善をなす」で退屈まぎれの所業だろうから、手さえ届かねば用を便じた後にまでわざわざ残って書く奴もあるまい。それから落書が見付かったら壁をすぐに塗りかえることだ。経費はかかるがこれが度重なればきっと一般の良心も喚起する。父兄もまた自然に強く悪童を叱るようになろう。このほかに学校あたりの訓戒も必要なことはいうを待たぬ。とにかく、外人に見られても厭にならぬほどに一洗したいものだ。(長喟生)

と、なるほど一応はもっとものようだが、この害の方面だけを見て、利の方面を見ないいわゆるその一を知ってその二を知らぬ浅薄な議論といわねばならぬ。
といえば、便所の楽書は社会にドンナ利益があるかと言うだろう。しかり、大いにある。手近い例を挙げてみると、下宿屋や宿屋などの便所には、必ず待遇についての不平を洩らしてあるものだ。停車場の便所には駅員の行動に対する不平や悪罵を絶えず記してある。その他、学校の便所には教員に対する批評や賄い方の不平が列を作って認められている。しかもこれら楽書の多くはすこぶる皮肉に要領を得ているものだから、これを見聞きした宿屋の主人、下宿屋の女将、停車場の駅長、学校の監督者等に多大の反省を与えているのは、常に聞きおよぶところで、現に予が往年或る所の温泉宿に泊まった時、其家の便所に客の取り扱いに対する警告をすこぶる痛切な文言で記されてあったのを、女中の一人が認め、そっと主人に耳打ちしたので、翌日その便所の楽書は抹殺されるとともに客に対する取り扱い方が大層鄭重になって、その痛切な文言を認めた人の意思が首尾よく貫徹したのを実地見撃したこともある。かの新聞雑誌の発行されなかった旧幕時代において大いに流行した落首なるものは、一種深刻な風刺的滑稽をもってよく社会の反省を促し、時には或る事件の結末を左右したほどの勢力があったものだ。便所の楽書も、わずか一行あるいは数行の文字やもしくは一筆がきの戯画で、痛快に人を批評し、反省せしめる点は、実に落首と同じことである。どこの便所にでもよく見うける彼の

尻の穴まがりしものは是非もなし、真直(まっすぐ)ならばまん中にせよ

という狂体一首などは、実に千古に伝うべき秀吟といわねばならぬ。それに便所の壁一面に、のしこし山を画いたり、あいあい傘のいたずら書きなどは、淫猥は淫猥だが、今日の新聞雑誌が「花嫁花婿」などと題し、新婚男女の肖像を並べるのと同一で、時には電光一閃、新聞探訪よりも、より速やかにその秘密を素破抜いて、アノ秘密がいつのまに知れたかと、その関係者をして反省せしめる効力に至っては、実に新聞雑誌以上といわねばならぬ。古来、物の考え事は、馬上、厠上、枕上といって便所は静止考案のために妙想を絞り出すべき第二の名所と定まっている。そもそも便所の楽書はジッと蹲踞って用を足しながら、冷静に考えて書き記すことであるから、その不平も、批評も、悪罵も決して常識を逸したものではない。いわゆる妙想を発揮した、痛快な、適切な、皮肉な、深刻な文言となるのは理の当然ではあるまいか。長喟生[右新聞記者]は前記雪隠道徳論において、「小人閑居して不善をなす」などといっているが、吾人は便所の楽書をもって、実に一種社会的制裁の機関として珍重すべきものと思っているのである。よってここに便所楽書奨励論を唱道し、世の情苦を訴うべき途なく、鞭撻すべき資格なく、警告すべき機関なき人々に、この便所の壁を利用して大いにその不平その遺恨その所思を発表せんことを勧告する。
(『つむじまがり』より)

面白半分 (河出文庫)

面白半分 (河出文庫)

あれあれ、どっかで聞いたことあるような話だな。

なかなか興味深かったので、せっかくだから資料として起こしてみました。
外骨一流のヒネリが入っているからすんなり受け入れるわけにはいかないけど、いろんな意味でニヤリとさせてくれる文章ですね。