機会不平等
愛・蔵太様の日記で斎藤貴男先生ネタが。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20050601#p1
「元発言を意図的に歪曲した可能性」だけで「悪書」とまで言うのはどうかと思うのですが、おおむね同感。斎藤先生の「権力」批判の仕方ってどうにもこうにもアレですから。本家サイトでもネタにした「人間破壊列島」という本にもこんな記述があったりします。
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政府による国民総背番号化計画の実態を取材した時。官僚あがりの中心人物は、管理される側の人間を嘲笑していた。
「サラリーマンなんか、どうせ何にも隠しようがない。今だって国民総背番号制をやられてるようなもんなんだ」
この発言も私は書いた。区役所レベルとは桁の違う支配者の論理。そのための法案も国会審議入りした。なのに誰も怒らない。このままでは権力者以外の日本人はすべて政府の監視下に置かれた奴隷になる。
えーっと…これって嘲笑?まあ現状そうなんだよなー、という感想しか湧いてこないのですけど。
会社員でありながらこの発言に怒りを覚えない俺「なんか」は斎藤先生から見たら奴隷根性の持ち主に見えるのかね。(あくまでこの発言単体ではね。もっとひどい発言があるってんなら別だが。)
ここの「なんか」って「など、等」の意味でしょ。「えー、斎藤貴男の言うことなんか真に受けてるのー?」というときの「なんか」と同じ用法だと言い張ることも不可能じゃないけども。「どうせ〜今だって〜」にしても、クロヨンなんて言葉があるぐらいですし、特に異常な認識とも思えません。テープ起こしそのまんまのラフな口調を無理やり問題発言にしたがってるようにしか見えないです。
「サラリーマンなんか」と見下してるぞ!と煽りたいんだろうが、正直逆効果だろ。
「区役所レベルとは桁の違う支配者の論理」の例としてわざわざ選んだ言葉がコレって相当無理してません?
ホントにこの人信用できるの?って思うよな、普通は。
梶原氏にお上の驕りがあるかないかっていえばそりゃあるでしょうし、国民総背番号制だって無しで済むに越したことはないのは当然ですが、なんでこんなやりかたをするんでしょう。愛・蔵太様のおっしゃるように
何かに対して否定的な人間が何かについて語る場合は、特定の思想的ベクトルを持たない第三者にも客観的・公的に確認可能な、誰がみても「それはひどい」と思われるような言動その他の何かを挙げて語るべきでしょう。
という、それだけのことなんですけどね。それができないなら、益と不利益を秤にかけて明らかにマイナスだから私は反対である、と普通に主張すればいいのに。あげく「このままでは権力者以外の日本人はすべて政府の監視下に置かれた奴隷になる。」なんて恫喝されてもな。うそくせー、なーんかうそくせー(画太郎)って感じずにいられません。
だって左翼は馬鹿って思わせるための反動工作員だろ、この人。しらふであんなこと書けるはずが無い。むちゃくちゃなのは当然だよ。マジレス不要。
それを言ったらおしまいだってばー。
そういやどうでもいいけど、Amazon見てたら「教育改革と新自由主義」という本のカスタマーレビューでなぜか小谷野敦先生が怒ってるぞ。
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私が詳細に批判したのに(「考える人」3号)、それに応答することもなく同じようなことを書いている。ゆとり教育が階層社会を作るための陰謀だというのは、妄想。仮に妄想でないとしても、東大生における学力低下を私はこの目で見ているのだよ。あるいは、機会が平等になれば、遺伝および環境素因、即ちどの父母から生れ育つかが重要になるのであって、共産主義が一時夢見た子供の集団育成しかあるまい。しかも遺伝素因は残るから、機会を均等にせよという主張はむしろ劣悪な遺伝子を残すなという主張につながる。右ー左のどちらかに思想を二分し、エリート教育と東郷平八郎を同列に論じるあたりは香山リカの「ぷちナショナリズム」並みの粗雑さである。斎藤よ、いま大学がどんな惨憺たる状況になっているか、私のところへ取材に来てくれ。
小谷野敦
言いたいことはわかるけど、これはこれでなんだかなあ感のする批判ですね。